鳥取市街地ぶらり旅

鳥取の街は昭和18年の大地震・昭和27年の大火と大きな災害を受けながら復興した街です。鳥取市街地は大火後の昭和30年~40年代の「復興と昭和レトロな街並み」池田家32万石の城下町の面影が残る「歴史の町」童謡・唱歌の作曲者、岡野貞一・田村虎蔵(岩美町出身)の生誕の地「童謡・唱歌の町」まずは鳥取駅南口には田村虎蔵作曲の「大黒さん」の像があります。
鳥取市街地の中心を流れる袋川に架かる、若桜橋北岸の左右の歩道には岡野貞一・田村虎蔵の作曲した代表曲、約30曲のモニュメントかあります。どんな曲があるか確かめながら散策するのも楽しいです。


駅南出口広場に立つ大国主命と白兎

駅北口の鳥取市内(正面に市民のシンボルの山久松山を望む)
センサーにより人が通りますと音楽が流れます

復興のシンボル若桜橋

若桜橋北詰にあるモニュメントと音楽が流れる碑
 
 

智頭橋のきなんせ広場は鳥取の町を象徴する五つのメッセージ広場です。1・唱歌「ふるさと」にちなんだ童像2・池田家の家紋「揚羽紋」3・伝統芸能「因幡の傘踊り」4・自然の豊かさ「滝と広葉樹」5・こどもの夢を育てる「水に浮かぶ石」
智頭街道を北に進むとおもちゃと童謡の「わらべ館」があります。ここはこどもから大人まで楽しめる施設です。1Fは童謡の部屋で懐かしい木造教室・鳥取の音楽家たちのコーナーなどがあります。2・3Fはおもちゃの部屋で楽しいおもちゃで遊んだり、懐かしいおもちゃに出くわしたりします。智頭街道から久松公園に向かう通りには「もみじ」の歌碑。公園手前には「ふるさと」の歌碑があります。


おもちゃと童謡のわらべ館

舗道に埋め込まれたレリーフ

もみじの歌碑

ふるさとの歌碑

次は「復興と昭和レトロな街並み」特に昭和27年の大火によって市内の半分以上が焦土とかした後は、日本で最初の防火建築帯(鳥取駅から県庁までの若桜街道を拡幅など、)の造成による都市計画がなされました。鳥取市街地のシンボルであった、袋川堤防の名勝一里の桜も焼失しました。しかし、瀬川弥太郎氏の匿名による桜苗木の寄進により、みごとに復活しました。復旧復興した市街地は昭和30年~40年代には多くの市民で町は活気づいていましたが、近年の大型郊外店の影響で、人通りが減りました。そのような中、頑張っている老舗店、新しい若い人たちの新規の店舗などがあり、改めて歩いてみると新しい発見があります。現在でも一丁々焼型で焼き上げるなつかしのお店創業は大正9年の老舗昔、ラッパを吊るして屋台販売していたので「ラッパや」と言います。オリジナル焼き印の入った煎餅を注文できます


若桜街道の両側は防火建築帯建築

復興のシンボル若桜橋の欄干不死鳥が舞い上がる
イメージをデザインしたと云われている

今日の桜並木

瀬川弥太郎氏の顕彰碑

昔は大変賑わっていた商店街

昭和の時代を色濃く漂わせる智頭街道

江戸時代より伝わる因幡の食材とうふちくわ(大豆7割・魚のすり身3割)

明冶35年創業の老舗「宝月堂」民芸せんべい
「生姜せんべい」が有名です
 
 

大災害に見舞われた五臓圓ビルは地域の活性化のため、街のシンボルとして活用されています。活性化のため店内ホールで色々なイベントが催されています。2Fには喫茶店もあり、落ち着いた雰囲気です。国の登録有形文化財・五臓圓ビル


昭和の歴史が刻まれた五臓円ビル

2Fの落ち着いた雰囲気の喫茶店
 

三つ目は「城下町の面影が漂うとっとり」鳥取市街地は大きく分けて4回の変遷があります。
1回目は関ヶ原の戦後、6万石で入封した池田長吉が大きく蛇行していた袋川を掘削して、城下町の外堀(後の薬研堀)を造り城下町を整備した町並み。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳥取城跡の内堀
現在の鳥取城正門(光政時代の大手門跡)
 

元大工町通り、左の家屋は高砂屋
薬研堀跡(昭和8年ごろ埋め立て、道筋は川筋の通り)
 

2回目は池田光政が32万石で入封し、長吉の外堀を整備(薬研堀・昭和8年代に埋め立てられる)して中堀とし、更に南側に新たな川筋を掘削して外堀(現在の袋川)を整備した町並み。(武士団の町・町民の町に中堀で分ける)


江戸時代の鳥取城下の外堀
現在の市内中心を流れる袋川

御用石(江戸時代の橋の重石)
洪水時に橋の上に置いた重石(鋳物師橋のたもと)
 

3回目は廃藩置県後、武士の家禄配給が中止になり武家屋敷が淘汰された明治時代の町並み。(行政機関が久松山方面に集中している理由、全国的に行政機関は上級武士団の屋敷跡にある)


現在の鳥取城跡前
鳥取県庁・久松小学校・裁判所など

鳥銀文化会館横手の箕浦家武家門
元付属小中学校・江戸時代の藩校跡地
 

4回目は鳥取大火後の大規模な区画整備による、道路拡張・寺院整備(墓地)などによる街づくり。特に災害後の市内の中心部は罹災で城下町らしい建築物は灰と化したが町割りは今でも当時のまま残っている江戸時代の若桜橋手前の街道みち江戸時代の悪水抜き空地現在の若桜街道東側の路地(ここで鍵道になっていた)街の町名の境界線(町の境界は道路筋ではない)区画整備で道路の拡張及び直線的に整備さてた町割りのなかでもよく見て回りますと昔の道筋が現在でも残っています。とっとりの街は、消えつつある懐かしい昭和の雰囲気を漂わせています。また古い城下町の面影を現在に至るまで残し、懐かしい歌を口ずさみながら童心こごろに帰る街です。


江戸時代乗馬の訓練場があっての名残名

年貢を納める城下の蔵所があった名残名
 
 

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